或る世界

2020年3月

人混みのまばたき

身体の隙間が動くたび、夕日が短く開閉する

低い日差しを避けて、前を歩く人の肩の影へ目を置いた。その人が少し左へ寄ると、首の脇から白い光が差した。瞼を閉じかけたところへ、別の人の頭が重なり、光はまた消えた。

影の中へ戻ろうと半歩左へ移った。正面の人と歩幅を合わせたつもりでも、向こうは手すり側へ曲がり、影だけが先に足もとから外れた。今度は隣を追い越す人の背中が夕日を塞いだ。

二人の間が開くたび、細い光が顔へ届いた。隙間はすぐ別の肩で閉じ、足を出すたび明るさが入れ替わる。私は進む先より、次に重なりそうな頭を見て歩いた。

モスクの尖塔は暗いまま空へ立っている。その手前で一人が立ち止まり、流れが左右へ分かれる。夕日が正面から丸く現れる。私は影を探すのをやめ、掌を額へ上げる。

匙の傾き

見えない先端の深さを、柄の傾きだけが伝える

菓子の上に置いた匙の先が、濃いソースを押し分けて少し沈んだ。持ち手はまだ皿の外へ傾き、先端だけが柔らかい面に隠れている。

そのまま手を離すと、匙は倒れずに止まった。黒いソースの下でどこまで生地へ入っているのかは見えない。皿の端から見える柄の角度だけが、先端の深さを知らせていた。

匙を抜くと、先端に淡い生地が少し付いた。残った穴はソースで暗く、皿の白さより先に、匙の重さだけを受け取った場所のように見えた。

もう一度置くと、匙は少し違う角度で止まる。皿の縁へ伸びる柄の影が短くなる。濃い表面に沈んだ先端を量るのは、その細い銀色だけになる。

格子の向こうの帯

隠れた途中を挟み、模様の両端だけが光っている

ドームの縁から中心へ、細い模様の帯が何本も集まっていた。その途中を、足場の黒い格子が斜めに横切っている。目でたどった線は、格子の内側でいったん見えなくなった。

足場は壊れた部分を覆うために置かれているのではない。人が高いところへ近づき、手を届かせるための床と階段である。それでもこちらから見れば、直すための構造が、直されるものの前へ一枚加わっている。

見えない帯の先が、格子の反対側からもう一度現れた。途中が隠れたままでも、同じ中心へ向かっていることは分かる。全体を一度に見せないものが、切れた線の両端を残していた。

下から見ると、足場の縦材は模様の帯より太い。けれど光が窓から入ると、格子の間だけが明るく抜ける。支えるための影の中にも、直される天井の小さな明るさがある。

受け皿の中央

円が止まるまで、水面は小さく遅れている

小さなカップを受け皿へ戻すと、底がいったん縁へ触れた。軽い音のあと、器は少し傾いたまま止まり、液面だけが片側へ上がった。

手を離さず、ほんの少し横へ滑らせた。もう一度、今度は短い音がして、底の円が受け皿の中央へ落ち着いた。縁に触れたときには大きく揺れた水面が、細かい輪を残して戻ってくる。

器を置くという動作は、一度の接触では終わらないらしい。受け皿の中心へ収まるまで、底は自分の居場所を探し、水面はその遅れを見せている。

最後の輪が消える前に、指を持ち手から外す。白い皿の中央でカップは動かず、さっきまでの傾きを映す明るさだけが、縁の内側に薄くとどまる。

敷居の前足

開く扉の手前で、前足だけが少し引かれる

入口の脇で伏せていた犬が、扉の蝶番の音に片目を開けた。人が出てくる前に、敷居へ伸ばしていた前足を一つだけ胸の下へ引いた。

扉が外へ動くと、犬の毛先が風で少し持ち上がった。通った人は足もとを見て横へ出ていく。犬は頭を上げず、空いた敷居の端だけを残している。

扉が閉じると、前足はまた段差の手前へ伸びる。ただし、さっきの場所より指一本ぶん内側で止まる。引いた前足の先だけが、マットの縁を離れている。犬は目を閉じ、戸板の影が毛の上をゆっくり戻ってくる。

近い目

近くにある目ほど、遠いことを残している

猫がすぐ前まで来ると、顔の縞や短い毛の向きが見えた。瞳の中へ自分の影が小さく入っても、手を伸ばさずにその場に立った。

近くにいれば、相手のことが分かるような気がする。目の色や耳の欠け、ひげの長さまで見えるからだ。しかし、それらは今ここにある形であって、どこから来たかや、次にどこへ行くかを教えない。

分からないことを遠くにあるものとして扱うのは簡単である。けれど、猫は靴の先ほどの距離にいても、知らないまま残る。近さは見える部分を増やしても、相手の時間までこちらへ運んではくれない。

猫は一度だけ瞬きをして、海の方へ顔を向けた。前足は縁に置かれたまま、ひげの先だけが風に細く動いた。

一番線の端

通り終えたあとで、持ち手だけが手のひらに残る

改札を抜けたところで、鞄の車輪が床の継ぎ目に小さく当たった。引いていた手を止め、持ち手を一段短く握り直すと、鞄は自分の踵より少し後ろへ収まった。

通る前には、鞄は身体の幅より外へ出ていた。人の流れへ入るために、片手を後ろへ伸ばしていたからである。改札を越えたあとも同じ持ち方で歩けば、次に曲がるとき、車輪だけが遅れてついてくる。

持ち手を短くすると、鞄は急に軽くなったようには見えない。ただ、腕から足もとまでのあいだへ近づき、曲がるための余白が少しできた。

案内板の下で、前の人が一度立ち止まる。私は鞄を横へ寄せ、その人の肩が動いたあとに歩き出す。車輪はさっきの継ぎ目を越えた音を残さず、黄色い線の脇をまっすぐ進む。

閉じない窓

待っている画面ほど、こちらの目から先に遠ざかる

キーを押すと、画面の隅にあった行が下へ伸び始めた。文字が増える速さを少し見てから、別の窓を前へ出した。

待っているあいだも、画面を見続ける必要はないと思った。ファイルの一覧を開き、次に確認するものを探していると、さっきまで隠れていた窓の端で、表示の色だけが変わった。

戻してみると、行はもう増えていなかった。最後の文字の下に、細い空白が残っていた。画面を見ていなかった時間に、待っていたものは終わっている。

次のキーへ指を置く前に、その空白を少し眺めた。動いていたあいだを知らなくても、戻る場所だけは消えずにそこに残っていた。

切った後の渦

平らだった薄い皮が、切り口で何度も戻ってくる

切り分けられた菓子の端に、薄い皮が小さな輪を重ねていた。外側では一枚の金色に見えたものが、切り口では細い線を何度も内側へ返している。

断面を見ると、隠れていた中身をのぞいたように思う。しかし、そこに見えるのは詰められたものだけではない。平らに広げられていた皮が、折られ、巻かれ、重ねられた順序まで、切った面に残っている。

外から見れば、菓子はひとまとまりの形をしている。切り口だけが、その形になる前に通った曲がり方を、奥行きのない線としてほどいてみせる。

一口ぶんを皿へ移すと、輪はすぐ崩れた。けれど口へ運ぶ前、中心から外側へ続く細い皮の列だけは、手の中でまだ巻かれたままだった。

小皿の縁

余分を落とした一本が、指先でいちばん軽くなる

細い一本を小皿の縁へ触れさせると、白い粒が片側へ付いた。すぐ口へ運ばず、指先を一度だけ下へ向けた。

粒のいくつかが、大皿の紙の上へ落ちた。残ったものは表面に薄く並び、指で持つ端までは届いていない。一本の重さはほとんど変わらないのに、手の中にある部分だけが少し軽くなったように感じた。

調味料を付けるとき、増やすことばかりを考えがちである。けれど、小皿から離れたあとにも、残す量を決める短い動きがある。指先をどこで止めるかで、表面に残る粒の密度が変わる。

口へ運ぶ前に、もう一度だけ傾ける。最後の一粒が紙へ落ちる。一本の角は明るく、残った粒の端でだけ止まっている。

左手の重さ

回す指の下で、もう片方の手が重さを受けている

レンズの下へ左手を入れたまま、右の親指で上面の小さなダイヤルを一つ回した。指先の下で細かな刻みが短く止まり、カメラの重さは左の掌へ残った。

設定を変えるには、両手をいったん離してもよさそうに思える。しかし、レンズを支える手まで外すと、本体の前が少し下がる。小さな調整のあいだ、片方の手は何も変えずにいる。

右手の指が止まると、左手の指を一度だけ開き直した。重さの位置は同じでも、掌に触れる金属の縁が少し移った。

肩ひもが胸の前で揺れを止めたあと、両手はまた同じ形へ戻った。次に構えるための軽い変更だけが、指のあいだへ残っていた。

折り目のまま

開かれた紙は、触れる順番だけを静かに残している

紙の包みの端を外へ折ると、苺の下の淡いクリームが見えた。フォークを持つ前に、紙の折り目だけを指先で押さえた。

包みは、開いた瞬間に中身と別れるものだと思っていた。けれど封を解くことと、手から離すことのあいだには短い時間がある。菓子はもう見えているのに、端の紙はまだ指が直接触れない場所を残している。

見えることと、すぐ触れられることを、同じものにしていたのかもしれない。開くのは隠す仕組みをほどくだけで、その後どう近づくかまでは決めてくれない。包みを少しずつ外すあいだ、菓子の側には、まだ選ばれていない一口が残っている。

フォークで端を切ると、紙の折り目がわずかに戻った。皿の上には淡い跡がつき、開かれた包みだけが、次に指を置く場所を静かに示していた。

細い筋のところ

箸を置く場所だけが、残る形を先に決めている

箸の先を切り身の端へ当てると、表面が少し沈んだ。強く押さずに横へ滑らすと、細い筋に沿って内側の淡い色が現れた。

最初から一口の幅に切られているものより、こういう料理は、どこから触れるかで次の形が変わる。中央から分ければ大きな二つになり、端から寄せれば薄い一片になる。食べやすさは量だけでなく、残す側の形にもある。

箸先をいったん離し、皿の手前の緑を寄せた。切り身の端はまだつながったまま、細い筋だけが光を受けていた。

濡れた赤の濃さ

同じ赤の上で、水滴はそれぞれ別の濃さを残している

花びらに残った水滴を近くで見ると、同じ赤の上に、濃く沈むところと白く光るところがあった。小さな滴は点のように散り、大きな滴は周りの色を丸く抱え込んでいる。

濡れることは、表面の色を一つに変えることだと思っていた。けれど水は薄い膜にならず、ところどころで形を持って残る。花びらの赤は滴の外ではそのまま続き、滴の内側では深くなったり、光を返したりする。

同じものの上にある同じ水でも、触れる面積と厚みが違えば、目へ届く色まで同じにはならない。濡れたという一語だけでは、どこがどう変わったかを言い切れないらしい。

花がわずかに揺れると、いくつかの滴が光を移した。赤は動かなかったが、濃さの違う小さな場所だけが、花びらの上で順に明るくなった。

影の間の道

二つの影を抜けたところで、靴先だけが急に明るくなる

芝地に伸びた影の端で、片足を止めた。もう一方の靴先だけが、道の明るいところへ出ている。

影から影へ渡るつもりで歩いていたが、二本の木のあいだには、日向が短く残っていた。そこへ足を置くと、さっきまで黒く見えた靴の甲が急に明るくなった。

木の幹を振り返ると、影は道の反対側まで届かず、芝の上で終わっていた。次の一歩はもう明るい場所だった。足の裏に残る冷たさが薄れる前に、私はその境目を越えた。

すぐ次の影へ入れば、明るさは消える。けれど足を出す前に、影のあいだへできた細い道だけが、芝の上ではなく足もとにあることが分かった。

黄色の奥行き

遠くの黄色は一つに見えて、手前ではまだ蕾を残している

手前の茎を見ると、開いた花の下に、まだ硬い蕾がいくつも残っていた。黄色い花びらのあいだから、次の小さな塊が緑のまま上を向いている。

少し目を上げると、畑の奥は一面の黄色に見える。そこでは、どの茎に蕾があり、どの花が先に開いたかは分からない。細かな違いが遠くへ行くほど消え、同じ色だけが広がっている。

まとまって見えることは、同じ状態になったということではないらしい。近くでなら別々に数えられる途中が、距離によって一つの色へ重なる。遠くの黄色は完成した面ではなく、多くの開き方が見えなくなった形でもある。

風が通ると、手前の蕾と花が同じ方向へ揺れた。黄色の奥行きはほどけず、茎のあいだにだけ、緑の細い隙間が戻ってきた。

矢印の上の枝

動かない矢印を、枝影だけが短く横切っていく

白い壁の前で立ち止まると、枝の影が自転車の印を斜めに横切っていた。丸い線も細い車輪も、影のなかでは少し太く見えた。

壁に貼られた文字や矢印は、こちらへ向かう場所を変えない。けれど枝は、同じ面を通りながら、標識の縁から矢印の先へ形を移していく。読もうとして目を近づけると、黒い枝の方が先に視界へ入った。

影が印の外へ滑ると、自転車の線は急に細くなった。壁に残った小さなねじだけが、さっきまでと同じ位置で光っていた。

段に残る幅

通り過ぎるための段に、座る人の幅だけが残っている

階段の途中へ腰を下ろすと、膝の前に次の段が一枚だけ残った。足を広げれば、手すり側へ上がる人の幅を塞いでしまう。私はつま先をそろえ、鞄を膝の上へ置いた。

階段は、上か下かへ身体を運ぶためのものだと思っている。座るときも、その役目が消えるわけではない。自分の背中の後ろでは人が降り、膝の横には、まだ誰かが通るための細い道が残る。

段に座ることは、通路を自分の場所に変えることではなく、残しておく幅を決めることなのかもしれない。広場の椅子なら、隣が空いていても人は遠回りする。階段では、空いた幅がそのまま次の足の置き場になる。

立ち上がると、座っていた段はすぐ階段へ戻った。つま先の横を通った靴音だけが、まだ一段下で短く鳴っていた。

汁の縁まで

麺の色が変わるのは、器の底ではなく汁の縁からだった

箸で麺を少しだけ持ち上げ、汁の器の縁へ近づけた。先端が液面に入ると、淡い色の一本ずつが、下から短く濃くなった。

全部を沈める前に、箸を止めた。汁に触れた部分は重く下がり、まだ触れていない側は、乾いたまま指の近くへ伸びている。一本の麺に、器の外と内が並んだ。

箸を少し引き上げると、濃い色は先端にだけ残った。縁を越えた長さが、そのまま一口の濃さになっているようだった。

麺が器へ戻る前に口へ運ぶと、汁の表面が小さく揺れる。黒い器には、まだ淡い色の束が、次に汁へ入る長さを残している。

切れ目の光

一貫のまま、表面だけが細かな向きを増やしている

白い身の上に入った切れ目へ、横からの光が細く残っていた。赤い線は、その小さな溝をまたぎながら、表面を途切れずに進んでいる。

切れ目があると、魚は何片かに分かれて見える。しかし下の握りは一つのままで、箸を入れる場所も一つしかない。分けるためでなく、同じ面の向きを少しずつ増やす線なのだろうか。

平らな一枚なら、光は同じ角度で返る。浅い切れ目が並ぶと、隣り合う身はわずかに違う方を向き、明るいところと影になるところが交互にできる。魚の大きさを変えずに、表面だけが細かく折れる。

箸で持ち上げる。赤い線は崩れず、切れ目ごとに違う角度の光を抱えたまま、黒い皿から離れていく。

パンのあいだの緑

分かれた二つに、同じ向きがまだ残っている

パンの上を片手で押さえ、切れ目の片側を持ち上げた。中の細い葉が遅れて引かれ、もう片側のパンの縁から伸びる。

切られているなら、それぞれを取ればよいと思った。けれど具は切れ目の内側だけに収まらず、葉の先は二つの間に細い橋をつくる。少し引くと、片方が軽くなる前に、もう一方も皿の上で傾いた。

手を止め、葉を指で内側へ戻す。二つのパンは別々に持てるようになったが、さっきまで間にあった緑の向きだけが、切れ目の上に残っている。

耳の横の花

一歩のあいだだけ、花は目線より低くなる

歩道へ張り出した細い枝の下で、肩ではなく首だけを少し傾けた。白い花の一つが耳の横を通り、袖に触れずに背後へ去る。

枝を越すために身体全体をよける必要はなかった。足を止めるほど低くもない。首の角度を変えるだけで、花の高さは頭の横を通り、次の一歩でまた目の上へ戻る。

花をよけたつもりで、枝から遠ざかったわけではない。身体を戻せば、同じ花はすぐ頭上の距離に戻る。

通り過ぎて振り返る。さっき肩のそばにあった花は、枝の先で再び空を向いている。近づきすぎたのは花ではなく、自分の高さのほうだった。

器の外の柄

掬う部分は隠れ、次に握る端だけが立っている

器の縁へ大きな匙を立てると、赤い柄だけが料理より高く出た。掬う側は中へ沈み、手の届くところには次に握る端だけが残る。

使い終えた道具なら、皿の脇へ横たえる方が自然に見える。けれど柄を立てておくと、匙はまだ器の中に半分残りながら、もう一度外から触れられる。中身と手のあいだに、次の動作だけが先に置かれている。

器の中にある部分は、いま何を掬っているのか見せない。柄も量や味を知らせない。それでも向きと高さだけで、手が戻る場所を消さずにいる。

指を柄へ添えると、匙は器の中で少し傾く。取り出す前から、次の一口のための持ち手だけが、卓上に立っている。

画面の外の白

反射だけが外れ、同じ文字の列が机に残る

窓からの白さが画面の左端へ入った。文字の列はそこだけ薄くなり、指でたどる前に、端末の上側を少しだけこちらへ倒した。

画面を閉じるほどには動かさない。机の上で向きをわずかに変えると、白い四角は文字から外れ、黒い縁の方へ移る。内容を変えずに、読むための場所だけを空けられる。

卓上灯はまだ同じ高さで点いている。窓の明るさも消えていない。二つの光のあいだから、反射した四角だけが、端末の外へ少しずれている。

椅子へ座り直すと、白い四角は黒い角で止まった。文字の列は、さっきと同じ場所に並んでいる。