或る世界

2019年9月

色は証言しない

失われた色ほど、記憶の中では鮮やかになる

古い白黒写真を見ていると、写っていない色まで見えたような気になることがある。空は青く、木の葉は緑で、祝いの日の服なら明るい色だったに違いない、と。

写真が残したのは明るさの違いだけである。それなのに、見る側は知っている色を空白へ戻していく。空と葉なら迷わない。だが、花や服になると、同じ濃さの灰色にも赤や青や黄色が入りうる。

色を補うことは、失われたものを取り戻すことに似ている。しかし、実際には記録を直しているのではなく、自分の知識や好みを置いているだけなのかもしれない。

しばらく眺めてから目を閉じると、写真にはなかった色が一つ浮かんだ。もう一度目を開いても、灰色はその想像を肯定も否定もしない。記録が黙っているところで、記憶だけが鮮やかになっていた。

禁止の終点

境目のない場所で、命令だけが先に終わる

禁止の標識は、どこまでも同じ強さで続くように見える。赤い印を見た瞬間、その先の道全体が閉じられたように感じるからだ。

ところが、「この先五十メートル」と添えられた禁止には終点がある。歩幅で数えれば、いつか命令の外へ出る。道の舗装も建物の並びも変わらないのに、同じ行為が、そこから先では禁止ではなくなる。

始まりには標識が立っていても、終わりに同じ大きさの合図があるとは限らない。何歩目で五十メートルを越えたのか、自分ではよくわからない。境目は見えないまま、命令だけが効力を失う。

規則は、場所を壁で二つに分けるのではない。途切れ目のない道の上へ、見えない範囲を重ねている。振り返っても何も変わっていなかったが、もう標識のこちら側ではなかった。

一度だけの酸味

短い酸味が、同じ味の途中に境目をつくる

濃い味のものを食べ続けていると、最初の一口ほど味がわからなくなってくる。料理が薄くなったのではない。口の方が、その濃さを普通だと思い始めるからだ。

皿の端にあるピクルスは、一切れしかない。先に食べればすぐなくなり、最後まで残せば、主菜を食べるあいだ役目がない。そこで、味に慣れてきたところで口へ入れる。

酸味は長く続かない。二口も食べれば消えてしまう。それでも、次に主菜へ戻ると、塩気や香ばしさが少し強く感じられる。料理は同じままなのに、食べる側の基準だけがいったん外へ動いたのである。

一切れの付け合わせは、量では主菜にかなわない。しかし、食事を前半と後半へ分けることはできる。皿からピクルスがなくなったあとにも、その短い酸味の向こう側で、同じ味がもう一度始まった。

降りなかった街

開いた扉の向こうにも、乗らなかった時間がある

列車が駅へ着いても、降りなければ、その街にいたことにはならない。扉が開き、ホームの名前を読み、人が入れ替わるのを見ても、こちらの足は車内の床に残っている。

降りる駅なら、階段を探し、改札を通り、地上へ出てから道を選ぶ。降りない駅には、その続きがない。見えるのは向かいの壁と、扉の前を横切る人だけである。

それでも、まったく通らなかったわけではない。列車はそこで止まり、数十秒ぶんの時間を使った。街の側から見れば、私は到着した人ではなく、閉まる扉の内側にいた一人だった。

発車の音が鳴ると、ホームの名前は窓の外へ流れた。目的地にしなかった場所は、知らない場所のままではある。しかし、知らなさにも、通過したことのある形と、名前さえ見たことのない形があるらしい。

誰も乗らない速度

待たせない仕事は、誰もいないうちから始まる

誰も乗っていないエスカレーターが動いていると、仕事だけが先に始まっているように見える。人を運ぶための階段なのに、運ぶ人が来る前から同じ速さで段を送り続けている。

利用する側は、入口へ足を置けばすぐ運ばれる。その一歩のために、機械がどれほど空の段を回していたかは知らない。待たずに使えることを、初めから当然だと思っている。

待機というと、止まって誰かを待つ姿を思い浮かべる。しかし、すぐ役に立つためには、動きながら待たなければならないものもある。誰もいない時間の運動は無駄に見えるが、その無駄が、最初の人の待ち時間を引き受けている。

一人が乗ると、空だった段に靴が置かれた。機械の速度は何も変わらない。仕事を始めたのではなく、続けていた仕事に、ようやく相手が現れたのである。

作者のいない表紙

重ねた人は違っても、残る面は一つになる

街の箱や柱にステッカーが増えていくとき、全体の出来上がりを考えている人はいない。一人は空いた場所へ貼り、別の一人は古い紙の端へ少し重ねる。それぞれが自分の一枚だけを置いて去っていく。

後から貼られたものは、前にあった絵や文字を隠す。しかし、全部を覆うわけではない。耳だけ、文字の半分だけ、剥がれた色だけが残り、新しい一枚の一部になってしまう。

誰も全体を描いていないのに、通りすがりには一つの面として見える。合作と呼ぶには、互いの相談も同意もない。それでも、一人では作れなかった重なりである。

完成を決める人もいない。空いている場所がなくなれば、次の一枚は上へ貼られる。表紙のように見えても、その下には別の表紙が何枚も眠っている。最後の作者が現れないまま、街は何度も上書きされていく。

隣の道は遠い

近さを決めるのは、間隔ではなく渡れる場所だ

高速道路を走っていると、すぐ隣に別の道が現れることがある。手を伸ばせば届きそうな幅を保ったまま、同じ方角へ進んでいる。それなのに、こちらから向こうへ移ることはできない。

道と道の距離を測るなら、ほんの数メートルで足りる。しかし、車でそこへ行くには、分岐まで進み、いくつかの曲がり角を経て、反対側から戻らなければならないかもしれない。近くに見えることと、近くへ行けることは別である。

地図で宿を探すときにも、目的地との直線距離だけを見て選ぶと、思ったより歩くことがある。線路や川を挟んでいたり、入口が反対側にあったりするからだ。建物の輪郭までは近くても、扉へ続く道は遠い。

隣の道はしばらく同じ高さを走り、やがて別の方角へ曲がっていった。最後まで近くにあったのに、こちらの道とは一度も交わらなかった。

知っている五分

正しくない針が、正しい時刻に人を着かせる

家の時計を、わざと五分進めている人がいる。支度が遅れがちだから、針に少し急かしてもらうためだという。

もちろん、進めた本人はそのことを知っている。時計を見て慌てても、頭のどこかでは、まだ五分あると計算できる。知らないふりをして自分をだます、少し変わった仕組みである。

それでも、出かける間際には役に立つことがある。靴を履きながら見た針に身体が先に反応し、五分の引き算をする前に玄関を出る。正しくない時刻が、待ち合わせには正しい時刻へ連れていく。

時計の仕事は、いまが何時かを正確に知らせることだと思っていた。しかし、時間を知らせることと、人を時間どおりに動かすことは別らしい。前者には誤差でも、後者には余白になる。

ただし、五分あると思ってのんびりし始めれば、効き目はなくなる。知っている嘘を役立てるには、ときどき、その五分を忘れなければならない。

大声の平均

全員が前へ出ると、先頭だけが消えてしまう

店が並ぶ通りでは、一軒だけ大きな看板を出せばよく目立つ。遠くからでも名前を読め、初めて歩く人の足を止められる。

ところが、その方法がうまくいくと、隣の店も看板を大きくする。向かいの店は灯りを増やし、別の店は文字を太くする。しばらくすると、一軒だけが大きかった通りは、すべての店が大きな声で名乗る通りへ変わる。

誰も小さくなってはいない。以前より明るく、文字も読みやすい。それでも、店同士の目立ち方は元とあまり変わらない。全員が一歩前へ出たために、新しい一列ができただけである。

同じことを続ければ、もっと大きく、もっと明るくするほかなくなる。目立つための工夫が、いつの間にか、目立たないためにも必要な最低限へ変わっていく。

通りを抜けて振り返ると、最初に大きいと思った看板を、すぐには見つけられなかった。小さくなったわけではない。周りが同じところまで育ったために、大きいことが、ただそこに並ぶための条件へ変わっていた。

走る人の文字

速い相手に届く言葉ほど、大きく短くなっていく

歩いている人には、店の看板を読む時間が長くある。名前を読み、営業時間を確かめ、入口の場所まで探すことができる。

車で通り過ぎる人には、同じ看板が数秒しか見えない。近づいて文字が読める大きさになったと思えば、すぐ横へ流れ、背後へ消える。読む人が速いのではなく、読める時間の方が短いのである。

そのため、道路沿いの言葉は大きく、短くなる。何を売る店なのか、どこで曲がるのか。細かな説明を削り、残した数文字を遠くから届く大きさにする。

文字の寸法は、建物の大きさだけを表しているのではない。どれほど速く通り過ぎる相手へ話しかけているかも示している。歩く人には大声に見える看板が、走る人には一瞬の普通の声になる。

信号で止まると、それまでちょうどよかった文字が、急に大きすぎるように見えた。看板は変わっていない。読む側の速度だけが、ゼロになったのである。

同じ印は二度ない

同じ形を押すたび、違う一回だけが紙に残る

判子は、同じ形を何度も作るための道具である。一度押した印と次の印が違っていては、役目を果たしていないようにも思える。

しかし、実際に紙へ押してみると、完全に同じにはならない。インクが少なければ線がかすれ、多ければ細い隙間がつぶれる。真上から力を加えたつもりでも、片方の縁だけ薄くなることがある。

複製という言葉からは、最初の一つがそのまま増えていく様子を想像する。けれども、判子には押すという動作が毎回必要で、そのたびに手の傾きや紙の硬さが間へ入る。同じ印面から生まれたものは、双子にはなれても、一枚のコピーにはなれない。

判子を持ち上げると、片方の縁が少しだけ途切れていた。それは複製の失敗というより、そこへ一度、手が下りた跡のように見えた。

到着は歩いてくる

遠い扉が開くたび、足音の波だけが届いてくる

駅の広い通路を歩いていると、人の数が急に増えることがある。さっきまで床がよく見えていたのに、向こうからいくつもの足音が重なり、流れの幅がいっぱいになる。

その人たちが乗ってきた列車は見えない。ホームは壁や階段の先にあり、扉が開いた音もここまでは届かない。それでも、列車が着いたことは、人の波を見ればわかる。

一人ずつに尋ねれば、行き先も急ぐ理由も違うはずである。ところが、遠くから見ると、別々の人がひとまとまりになって押し寄せる。誰も歩調を合わせていないのに、同じ扉から解き放たれた時間だけが、足取りをしばらく揃えている。

やがて流れは細くなり、床の模様が戻ってくる。駅が空いたのではない。次の列車が、まだ見えないところを走っているだけである。

立ち止まっていると、また遠くの階段から人が増え始めた。列車の姿より先に、到着した時間がこちらへ歩いてきた。

借りものの輪郭

空いているところほど、立つ場所から景色を借りる

展示室で立体の周りを歩くと、向こう側が抜けて見える部分だけが、歩く速さに合わせて姿を変える。白い壁だったところへ人が入り、数歩進むと別の作品の色が現れる。

立体の輪郭は動いていない。変わるのは、その内側へ遠くから届く景色である。空いている部分には固有の色も模様もないため、見る人が立つ場所から、背後にあるものを一時だけ借りる。

窓なら、その先に見せたい景色を考えて建てることができる。しかし、展示室を歩く人の視線には決まった正面がない。作品同士は離れて置かれていても、少し屈んだり横へ動いたりするだけで、一つの輪郭の中へ別の作品が入り込む。

それは二つの作者が相談して作った組み合わせではない。触れ合うことも、どちらかが変形することもなく、見る位置にいるあいだだけ成立する。

もう一歩横へ動くと、借りていた色は輪郭の外へ出た。空白へ戻ったのではない。次にそこへ入るものを、何も選ばず待つ形へ戻ったのである。

輪にも上がある

丸い形にも、掛けた瞬間から上と下が生まれる

丸いものには、本来、上も下もないように思える。卓上に置いた輪は、少し回しても同じ形のままで、どちらを正面にしても間違いにはならない。

ところが、壁へ掛けると、輪にも上ができる。紐を受ける一点がいちばん高くなり、その反対側に重さが集まる。飾りが片側へ寄っていれば、正しい向きはさらに明らかになる。

形だけを見れば同じでも、使い方が向きを決めるものは多い。皿は棚に立てれば横向きになり、鞄は持ち手をつかめば底が決まる。ものの上下は、輪郭の中に初めから描かれているとは限らない。

人が立つ方向や、重さを預ける場所によって、それまで同じだった周囲の一点が「上」になる。輪は回せなくなったのではない。回せば掛けられるが、飾りの重さが、元の向きへ静かに戻そうとする。

壁から外して卓上へ置くと、上だった場所はただの一点へ戻った。輪の中から上下が消え、次にどこで支えられるかを待っていた。

順番を切る

切り口の数だけ、待っていた手が同時に動き出す

大きなサンドイッチは、そのままでも食べられる。しかし、一つのまま何人かで分けようとすれば、持てる人は一人だけである。次の人は、最初の人が手を離すまで待たなければならない。

包丁を入れても、食べ物の量はほとんど変わらない。それでも、二つに切れば二人の手が伸び、さらに小さくすれば、それぞれが同時に自分の一片を持てる。

切り分けるのは、一人分の量を決めるためだと思っていた。だが、同じ大きさに揃えなくても、切るだけで変わることがある。一つを手渡していく順番がなくなり、何番目に食べ始めるかを決めなくてよくなる。

分けることで増えたのは食べ物ではなく、始められる時刻なのだろう。一人が食べているあいだ、残りの人の時間を止めておく必要がない。包丁は形を分けると同時に、一本だった待ち時間も切っている。

皿から一片を取ると、別の手も隣の一片へ伸びた。どちらが先だったかはわからない。切り口ができたところで、順番そのものが要らなくなっていた。

雨の残る角度

乾く順番が、見えなかった傾きを教えてくれる

雨が上がったあと、植え込みを眺めると、同じように濡れたはずの葉や花が、同じ速さでは乾いていない。

上を向いた浅いくぼみには粒が残り、少し傾いた面では縁へ細い道ができている。急なところでは、もう水の跡さえ見つからない。

晴れているときには、どの面もただ滑らかに見える。そこへ水が乗ると、目では捉えにくかった高低が現れる。水平に近いところは水を置き、傾いたところは流す。雨粒は物差しを当てずに、小さな地形を描いていく。

同じ雨を受けても、残す量が違うのは、片方だけが多く濡れたからではない。受け取ったあとの形が違うからである。出来事の大きさだけでなく、それを置く場所の傾きが、あとに残るものを決めることがある。

風が触れると、一粒が縁まで滑って落ちた。水がなくなったあと、そこに傾きだけが見えるような気がした。

斜めの一本

まっすぐな枠を、斜めの一本が動けなくする

四本の細い棒で四角い枠を作る。角を留めてあるから丈夫そうに見えるが、横から押すと、棒の長さを変えないまま平行四辺形へ傾いてしまう。

そこへ、左下から右上へ斜めの一本を渡す。すると、さっきまで動いた角が急に動かなくなる。縦の棒も横の棒も増えていないのに、四角は四角のままでいることを強いられる。

斜めの棒は、上にも横にも広げてくれない。歩くための床にも、物を載せる棚にもなりにくい。使える場所を増やさず、ただ形が別の形へ変わるのを止めている。

まっすぐに立つためには、まっすぐな線だけを集めればよいと思っていた。しかし、縦と横は、自分たちが直角であることを自分たちだけでは守れない。どちらでもない方向から来た一本が、二つの向きの関係を決めている。

斜材を外すと、枠はまた静かに揺れ始めた。一本が支えていたのは重さではなく、四角が四角であり続けるという約束だった。

入口だけが合う

入口が合っても、中を流れるものまでは同じにならない

見慣れない差込口の前では、こちらのプラグが急に間違った形に見える。別の場所では何の問題もなく使えた道具なのに、二本の刃の向きや丸みが違うだけで、入口へ届かない。

変換器を挟めば、形は合う。こちら側で受け取った二本の刃を、向こう側の穴に入る形へ置き換える。機械を作り直さなくても、入口までの短い距離だけをつないでくれる。

しかし、それで中を流れるものまで同じになるとは限らない。差し込めることと、正しく使えることは別である。変換器は、電圧の違いまで黙って引き受けてはくれない。

問題が一つ解けると、確認そのものを終えたくなる。入らなかったものが入るようになる変化は目に見えるが、電圧の数字は小さな表示を読まなければわからない。目立つ不一致が消えたために、見えにくい不一致まで消えたように感じてしまう。

変換器を一つ鞄へ入れた。小さな道具が約束しているのは、どこでも同じように使えることではない。まず、確かめるところまで進めることだった。

開けない中身

確かめないことまで含めて、持ち歩くものがある

封筒や包みは、中にあるものを取り出すために開ける。外側は届くまでの入れ物で、用事があるのは、その先に隠れている紙や品物である。

お守りにも中身はあるはずだが、何が入っているかを確かめようとは思わない。縫い目をほどき、目で見た途端によくわかるものになるとしても、そうしてはいけないような気がする。

わからないまま持つことは、知らなくてよいと投げ出すこととは少し違う。開けないという扱い方を選び、その閉じた部分ごと鞄やポケットへ入れて運ぶ。確かめられないから信じるのではなく、確かめないことまで含めて預かっている。

普段は、中身を見なければ判断できないと思っている。説明を読み、仕組みを調べ、納得してから使う。けれども、すべてを知ることだけが丁寧な扱いではないらしい。こちらが見られるところまで見ないと決め、その境目を守ることも、一つの扱い方になる。

鞄の内側へ戻すと、お守りはまた見えなくなった。中身だけでなく、袋そのものまで隠れた。それでも、持っていることだけは、鞄の重さよりはっきりしていた。

花を食べない客

同じ食卓へ、食べるものの違う客が集まってくる

庭の花には、蜜や花粉を目当てに小さな虫がやってくる。花は動かずに食べ物を置き、虫はその場所を覚えて何度も戻ってくる。

ところが、花そのものを食べない客もいる。花弁の近くでじっとして、蜜へ向かって来る虫を待つ。花を食卓にしている虫が、別の虫にとっては食卓へ運ばれてくる料理になる。

同じ場所に集まっていても、全員が同じものを求めているとは限らない。ある虫は花の中へ顔を向け、別の虫は、その背中へ顔を向けている。一つの中心から、食べる方向が二つに分かれている。

花は、来る者を選んで蜜の場所を知らせているわけではない。匂いや色が届けば、蜜を必要とする虫が来る。そして、その虫が来ることを知る者も来る。花から始まった知らせは、食べる者を一段ずつ変えながら遠くまで届く。

小さな虫が近づくと、花の上の影がわずかに動いた。蜜を見ている者と、その者を見ている者が、同じ花を中心に別々の食事を始めようとしていた。

焼き目は一枚

分かれているものにも、裏側だけの一枚がある

餃子は一個、二個と数えられる。皮には一つずつ閉じた縁があり、隣と入れ替えても、それぞれの形は変わらない。

ところが、焼いた面には薄い羽根が広がり、隣り合う餃子の境を越えている。上からなら何個あるか数えられるのに、皿へ触れている側には、一枚の大きな焼き目がある。

一つなのか、いくつなのかは、どこで区切るかだけでなく、どちらの面を見るかでも変わるらしい。中身と皮を見れば一個ずつで、鍋に残した跡を見れば全体で一枚になる。

一個を箸で取ると、餃子そのものはそのまま持ち上がり、羽根だけが隣との間で割れる。もともと別々だったものを分けたはずなのに、薄い一枚を壊した音がする。

皿には、餃子の数だけ空いた場所ができていく。その周りで割れた焼き目は、どの一個のものとも決めにくい。包まれた中身は一つずつ食べられ、鍋に触れていた時間だけが、最後まで細かな破片になって皆の間へ残った。

いちばん小さな地名

大きな看板ほど、名づけている範囲は小さい

繁華街を歩くと、遠くから読めるのは店の名前ばかりである。建物の上まで伸びた文字や、色の変わる看板が、それぞれ自分の入口を知らせている。

その下で、地下鉄の入口には地名が短く掲げられている。文字は店の看板よりずっと小さい。しかし、その二文字が指している範囲は、一軒の建物より広い。いくつもの店も道路も、そこを歩く人も、まとめて同じ場所の内側に置いている。

文字の大きさと、名づける範囲は反対になることがある。大きな看板ほど一つの店だけを指し、小さな地名ほど街全体を引き受ける。目立つための声量と、言葉が覆う広さは同じではない。

地下へ降りる前に振り返ると、大きな文字はまだ空に残っていた。入口の小さな二文字だけが、その光をすべて同じ街の夜として束ねていた。

伝票には一杯

頼んだ一語より、運ばれてくる朝の方が広い

喫茶店で珈琲を一杯頼む。すると店によっては、トーストや卵が一緒に運ばれてくる。口にした注文は一つなのに、卓上では食べるものが複数になっている。

珈琲という言葉が、飲み物だけを指しているわけではないのだろう。ある時間にその店で使えば、朝の空腹を少し満たすところまで意味が広がる。客が一品ずつ付け加えなくても、店の側が一杯の内側へ食事を畳んでおいてくれる。

名前が同じなら、頼めるものもどこでも同じだと思いがちである。しかし、注文の一語には、その場所で長く続いた習慣が見えない注釈として付いている。初めて来た者だけが、運ばれた皿を見て、その注釈をあとから読む。

飲み終えて伝票を見ると、書かれているのはやはり一杯分だった。数え方が間違っていたのではない。一杯という単位の方が、思っていたより広かったのである。

空き地の番

何もない場所が、次の形を先に預かっている

神宮では、社殿を二十年ごとに隣の敷地へ建て替えると聞いた。建物が移った側は、次に戻ってくるまで、社殿のない場所になる。

普通、空き地には、まだ使い道が決まっていない印象がある。前の建物がなくなり、次に何が建つのかもわからない。ところが、ここでは次の形も、戻ってくる時も決まっている。何もないのは、役目を失ったからではなく、もう一方へ役目を渡しているからである。

二つの敷地があれば、古い社殿を先に壊してから、同じ場所で新しい社殿を待つ必要がない。片方が役目を果たしているあいだに、もう片方で次を用意できる。空いている場所は休んでいるのではなく、途切れずに受け渡すための余白になっている。

建物を残すには、同じ場所で古い材料を修理し続ける方法もある。しかし、社殿は新しい木で建て直され、敷地まで隣へ移る。それでも別の神社ができたとは考えない。同じであることを、材料や場所に固定せず、建てて移る手順の方へ預けている。

空地の前を離れるとき、そこにはまだ次の屋根も柱もなかった。それでも、何が建つかわからない空白には見えなかった。建物より先に、役目を受け取る順番だけが置かれていた。

閉じない門

身体を止めず、通る前と後だけを分けている

門には、開けたり閉めたりする扉があるものだと思っていた。閉じれば人を止め、鍵を掛ければ、内側へ入れる者を選ぶことができる。

鳥居には扉がない。柱のあいだはいつも開いていて、押すものも、引くものもない。その気になれば歩調を変えずに通り抜けられる。門でありながら、身体を一歩も止められないのである。

それでも、鳥居の前では足を緩め、くぐるときに頭を下げる人がいる。木の柱が通行を妨げたのではない。そこに境目があると気づいた人が、自分の動作を変えている。

境界には、越えさせないためのものと、越えたことに気づかせるものがあるのだろう。前者は壁や鍵で身体を分ける。後者は何も塞がず、通る前と後を心の中で分ける。

橋を渡り終えて振り返ると、同じ鳥居の向こうに帰り道が見えた。開いたままの門は、入るときには入口で、戻るときには出口になる。閉じないからこそ、どちら側に立ったかをこちらへ問い返しているようだった。

一口目は底にある

見えない始まりを、上まで返してから食べる

汁のある麺なら、箸を入れる前から、麺の周りに味が見えている。上から取っても下から取っても、どこかで汁に触れる。

汁なしの麺では、味の始まりが器の底に隠れていることがある。目に近い具から食べ始めるのではなく、箸を深く差し入れ、底の麺を持ち上げなければならない。

食べるための動作は、普通、上にあるものを減らして下へ進む。しかし、この一杯では最初に下から上へ戻る。見えなかったたれを引き上げ、表面にあった麺を沈め、器の中の上下を何度も入れ替える。

混ぜるというと、隣り合う具を横へ散らす動きを思い浮かべる。しかし、ここで埋めるのは器の深さである。底に偏った味を上まで運び、味の薄い麺を下へ送る。見えない上下の差が小さくなるまで、同じ場所を往復する。

箸で持ち上げた麺を返すと、底の色が少しずつ全体へ広がった。一口目は目の前にあったのではない。器のいちばん遠いところから、ようやく上まで来たのである。

食べないための食料

手を出せないものだけが、最後まで残っている

彼岸花の球根には毒がある。普段なら食べ物の数には入らない。それでも、飢饉のときには、十分に毒を抜いたうえで食べられたことがあると聞いた。

食べられないものが、食料の備えになるというのは妙である。しかし、普段から簡単に食べられるなら、空腹になるたび掘り出され、いちばん必要なときまで残らないだろう。

毒は球根を食料の外へ置く。そのため、畑の作物や蓄えがなくなっても、土の中に手をつけていないものが残る。役に立たないと思われていた時間の長さが、そのまま最後の備えになる。

もちろん、毒が消えるわけではない。人が手間をかけ、危険なものを取り除けたときだけ、食べ物へ移る。最初から安全な食料ではなく、ほかに道がなくなったときに初めて、食べられる可能性を調べるものなのである。

食べ物は、食べられるから蓄えられるのだと思っていた。だが、最後まで残るには、すぐには食べられないことが役に立つ場合もある。土の下には、食料ではない姿をした備えが眠っている。

交差しても会わない

地図の一点を、高さだけ違えて通り過ぎる

二本の道が地図の上で交差している。そこへ行けば道が一つに重なり、別の方角から来た人とすれ違うように見える。

ところが、片方が橋になり、もう片方がその下をくぐれば、二本の線は一度も同じ場所を使わない。上を歩く人と下を歩く人は、地図では同じ一点を通りながら、互いの姿を見ないまま離れていく。

地図は高さを畳んでしまう。橋の上も、トンネルの中も、一枚の面へ押しつけて線にする。そのため、紙の上の交差には、出会える交差と、決して出会えない交差が同じ印で描かれる。

同じ場所にいる、という言葉にも高さが抜けている。住所が同じでも階が違えば、隣にいるとは限らない。頭上を列車が通っても、乗っている人と道を譲り合う必要はない。

トンネルを抜けると、もう一方の道がどこを通っていたのかは見えなくなった。二本の線は交差したのではない。同じ一点を、別々の高さで通り過ぎただけだった。

家が目的地になる

離れた距離のぶんだけ、帰る方角が生まれる

家は、そこにいるあいだ、目的地ではない。買い物や食事から戻るときには行き先になるが、扉を開けて中へ入れば、また単なる現在地へ戻る。

遠くへ離れると、家の役目が少し変わる。眠る場所でも、荷物を置く場所でもあることは変わらない。しかし、そこへ向かうには、乗り物と時間が必要になる。現在地だったものが、一つの行き先になるのである。

出発するまでは、知らない土地ばかりを目的地として考えていた。地図に印を付け、そこまでの道を調べる。家は地図を開く場所であって、印を付ける場所ではなかった。

ところが、離れた瞬間から、家にも経路が必要になる。いつか戻るなら、切符を選び、乗り継ぎ、扉の前まで移動しなければならない。出ていくことは、家を後ろへ残すだけでなく、未来の行き先を一つ増やすことでもある。

機体が陸から離れると、家のある方角は窓の外へ移った。どれほど先になるのかはわからない。それでも、出発点だった場所が初めて、帰るという名の目的地になった。